農家を営む家庭で、横光利一の話題が出たことがあるだろうか?
私の家では一度もなかった。
多分、日本中どこの家でもまずないだろう。
この、忘れ去られた作家、横光利一の「夜の靴」という作品を勧めるのは、私が千葉の田舎の農家で生まれ育ち、タクシーに乗った回数よりトラクターに乗せてもらった回数の方が多い、根っからの田舎者だからだ。
現在農家の数は減っているから、共感する人は少ないかもしれない。けれど、農家と何らかの繋がりがある人は、絶対に心に迫るものがある。
だから、農家の人には特に読んで欲しい。
「夜の靴」という作品は、戦後、東京から疎開してきた作家の家族が、農村の現状を淡々と描写した物語だ。
実際に、横光利一という作家が体験した記録が元になっている。
記録が元になっているので、物語を面白くするような、大げさな事件が起きることはない。
殺人事件も、不倫騒動も、一揆打毀しも起きない、普通の農村の物語だ。
しかし、私がこの小説を面白いと思ったのは、この作品で描かれる事件は、現代の農家の間では当たり前に起きている事件ばかりなのだ。
物語はポツダム宣言を受け入れたことをラジオで聞いた場面から始まる。
戦争は日本中でやっていたわけじゃない、けれど、日本中どこにでも影響を与えている。
都会に住んでいた主人公は、田舎に疎開してきて戦争が農村にどう影響したのかを彼なりのまなざしで見つめていく。
まず、読んでいて気付いたのは戦争に対しての田舎人の対応だ。
どこか、無関心で他人事なのだ。
自分の息子が出征した母親の心配を、父親は社会主義のソビエトが捕虜になった貧乏人の子どもを殺すことなんてない、と楽観的に慰める。
実際にソビエトで捕虜がどんな目にあっているのか、知る手段は無いにしろ、自分の子どものことなんだから、もっと必死に調べようとしたり、探しに行ったりしないのだろうか。
しかし、主人公が見た農村の姿は、まるでテレビで非道な事件だとか、重大な法案が通ったことをなんとなく見ている自分たちに近い。
実際に、私の知り合いの農家でTPPが農家にとってどれくらい損益をもたらすか、そんなことを真剣に考えている人は少なかった。
実際、そんなことを考える暇なんてないくらい、農家はやらなければならないことがたくさんあって、親戚、近隣の人間同士の政治もおろそかにできない。
私のような不良娘以外は、自然や人間との戦いに精神を削っている。
だから私は、主人公のまなざしと同じ目線で農家のいさかいを眺めていられた。
事件という事件が起こらないこの小説で、唯一事件らしい事件と言えば「米の供出」についての事件だけだ。
戦時中、とにかく勝つために米を作れ、と国から村全体にノルマを課せられた。
ノルマを達成したら、国のために頑張った村には決まった量の米を配給してやろう、という約束のもとに農民たちは頑張って米を作った。
どこの家も必死に米を作って、我先にとノルマを達成していった。
しかし実際、国との約束が果たされることはなく、米が供給されることはなかったため、農民たちは食べる米がなくなった。
この事件が起きたことによって、米を集めて国に報告する係、村の組合長のような立場のひとりだけが国から名誉を得た、自分たちには何の得もなかったのに、と非難を受ける。
供給事件があってからというもの、国を信用できないから、米を隠して、供給できないと嘘をつくものが出はじめた。
人々の間に不信が生まれ、米を集めた組合長は責められた。
よく考えれば、戦争をしでかした国に原因があり、それを盲信的に、無関心に支援したのは選挙権を持っている自分たちであったのだから、たった一人を責めるのはあまりにもかわいそうだろう。
しかし、横光のまなざしは、その農民の狭い世界の価値観を、むしろ賛美した。
なぜ世界が狭いのか、想像を働かせないのか、横光はその理由を考察する。
世界を狭めることは、農民が生きていくために、脈々と積み重ねてきた遠い過去からの生存戦略の姿なのだ。
農民たちの無関心は決して愚鈍ではなく、生きていくために不要なものを切り捨てた結果であり、合理的で美しいものだと横光は讃えた。
私は横光のこのまなざしの温かさと誠実さに驚いて、農家の娘として、恥ずかしくなった。
世間でどれほど大変なことが起こっていても、天気予報ばかり気にしている両親を馬鹿みたいだと思っていた。
なぜ、気付かなかったんだろうと横光の言葉で私は思い知らされた。
これが農家の姿なのだ。
世界で何が起きても、次世代に自分の持つ知恵を伝え、時にケチに見える行動もすべて、より良く生きるために、農家という生き方の実戦であり、自分のすべきことを理解し、運命を受け入れて戦っているのだ。
田舎の農家生まれであることにある種のコンプレックスを持っていた私に、横光の言葉は一筋の光を与えてくれた。
農家であることも、世間知らずであることも、恥じることは無いのだと、私たちは誇っていいのだと教えてくれた。
毎日泥まみれで返ってくる父母の、化粧っけの無い顔を、カッコいいと感じられたのは、この作品の、「夜の靴」のおかげである。
また、作中でアメリカからの技術者に日本の農業について、宗教だと、農業ではなく趣味の園芸の域である、と非難されたことを主人公が聞く場面がある。
それに対しての返答が、宗教は人を救うためにあるものだから、どんなに悪い団体でも、その根底には何かを良くしようという概念があり、道徳を建て直そうとしている混乱がそう見せていると答えるのです。
日本の農業、またはすべての労働における無駄だとしか思えない細やかな作業は今や悪習として削がれはじめている。
確かに無駄を減らすことは大事だと思う。
その無駄だと思うものに、何か尊いものがあるかもしれないと私は考えた。
この問題は非常に難しいことだ。
未だに解決されない、大きな問題だ。
だからこそ、一緒に考えて欲しいと思う。
横光利一はこの問題を投げかけて、彼なりの答えをひとつの漢詩に託した。
それこそが「夜の靴」というタイトルの詩だ。
木でできた人が夜に女性のところへ訪れる靴を履いてゆく。
女性は子を産めない身体で、暁の冠を被って帰る。
木石に喩えられ、子どもが生まれる筈がない、意味のない関係の男女の孤独な関係を横光は美しいと言った。
美しさを、祈りのように横光はこの作品で語り切った。
日本の農民に対して、これほど真に迫って祈り、考えてくれた作家がいただろうか。
私は父母に横光利一を知っているか尋ねたが、もちろん知らなかった。
知り合いの農家の方にも何人か尋ねてみたが結果は同じだった。
だから、今こそ横光利一を知って欲しいと思う。
田舎を、農家を、自虐的に笑う必要なんてないんだ。
農村の姿を真摯なまなざしで見つめ、肯定してくれた作家がいた。
他にも儲かる仕事があるのに、と馬鹿にされながらも農業を続けるあなたたちに祈りを捧げた作家がいた。
農家の誰もがというわけではないが、都会人へのコンプレックスを多かれ少なかれ持っているのではないかと思う。
母は自分の爪を見て、常に芋のしぶで汚れているのを気にしていた。
私も、すくもを燃やした日に干したジャージに匂いが移り、クラス中で笑われたことがあった。
こんな経験から、農家なんてと思ったことが誰だってあると私は、思う。
だからこそ、横光利一の言葉を聞いてほしい。夜の靴の足音を聞いてほしい。
それはあなたに勇気と、誇りを取り戻してくれると信じている。
現在は著作権も切れているので、無料で読めるサイトもあるので、これから忙しくなる農家の方は、ぜひ、農閑期になったら読んでみて欲しい。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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